人生のつらさと悲しみと

ひとつ書いては一年ほど放置する、という流れが定番になりつつあるこのブログ。

 

タイピング練習としてやってみたけれど、結局日記ならスマホアプリでやってしまうから全く活用できないよね。

 

ただの愚痴ブログじゃなくてコスメのブログにでもしようかなと思わないでもないけれども、コスメのレビューならこれまたスマホアプリでやっているから絶対的に放置の運命にあるのかもしれない。

 

うそ。運命ではありませんね。全てわたしの匙加減です。

 

 

今日は3年程相棒を務めてくれた後輩が退職の挨拶にきた。

もう本当に感謝しかない。

嫌なところももちろんあったけど、感謝していることばっかり。

私は彼女になにかしてあげられたかな。

 

年下だけど賢くて、常に自分を崩さない人だったね。

見習うところがたくさんあった。

勝手に学んでいくことができる人だから、私がなにか手本として学んでもらえたことがあったのかな。

 

 

ひとりぼっちになってしまった。お店にひとりぼっち。

他の人はお店を空けて昼食を買いに行ったりしているらしい。

 

え、許されるんだ。知らなかった。みんなそうなんですって。

 

でもこれからはずっとひとりだからね。

人生はつらくて悲しい。

そしてこのつらさと悲しみに勇敢に立ち向かう必要は多分ないんだろうね。

 

卒業だなと思ってはいるけれど、なんだか結局このままのような気もする。

どれだけつらいことがあっても、

「時々 um でも大丈夫 選んだのは私だもの」

という歌詞を思い出す。Do As Infinityの「Week!」

名曲なのよ。

 

気持ちを言葉にするのはむずかしいな。

今でも主張をするのは大の苦手。誰に対しても。

だから本とか歌詞とかをよく思い出すのかもね。

他人がつくってくれた言葉を自分勝手に解釈して、勝手に頭のなかでたくさん登場させてる。

他人が作った言葉なのに、共感できるなんて不思議だね。

 

だからつまり、普段はいろんなところを気にしながら、でも口には出せずに殺意だけを燃やし続けている。

怒りと殺意。

だめな自分のことは棚の上に置いて、他人のふるまいに苛立っている。

 

気にすんなよ。

 

わかる。でも無理なのよそれが。気になっちゃうんだよ。

 

昔に仕事を辞めて1年近く働かずに家にひきこもって寝てばかりいたことがあるけれど、今日、あの頃の私は多分鬱だったんだと思う、と母に言ったら、そうだと思うと同意を得られた。

家族にもそう思われていた。

 

またそうなんじゃないのかな。

つらいことばかりだし、やりたいことができないフラストレーションに、心配事がいくつも浮かんでいる。

 

 

最後の締めの言葉は、「今日もPCが熱いな。」で統一するか。

 

 

読書日記

今年の5月は一日も欠かさずに本を読んだ。

6,7,8,9月は仕事が休みには読まない日もある。

基本的には通勤の友だからね。

 

趣味って休みの日にするものだと思っていたけど、必ずしもそうではないんだな。

 

だけど5月ではなく、ここにきて急に本の読み方がわかってきた気がする。

本を読むのが早くなった。

本を読むことにも慣れってあるんだね。

今の生活って、文字を読まない日はないから読書速度が変わることはないのかなと思っていた。

本を読むのが早くなったら、もっといろんな本が読みたくなった。

 

今年は23冊の本を読んだ。

インターネット上に溢れている作品も読了のリストに入れたら、どれだけの量になるだろう。

 

書籍は専ら電子で読んでいる。

手軽に持ち歩けるし。汚れや折れを気にする必要もない。

文字の大きさも変えられるし、なによりも一番気に入ってるとことは背景は黒・文字は白の配色に変えられるところ。

これは本当に読みやすい。

なぜか昔から他人よりも物が眩しく見えやすいようなので助かる機能。

眩しく見えるよう、というのは、実際に他人の見え方を体験したわけではないので事実かはわからないけれど、昔から集合写真で一人だけ眩しそうな顔で写っていたり、私が眩しいと言うと、家族は別に眩しくないと言ったり、そんな程度の具合なのだけれど、とにかく白背景の眩しさは黒背景を試した今、もう戻れないなと思う。

 

でも本当のところは、紙の本が読みたい。

電子書籍は素晴らしい。とにかく軽いし、自分の本棚を持ち歩いているみたいに何冊もの本を入れられる。場所を取らない。

だけど、紙の本が読みたい。

触った感覚や本の香りが好きだなと、電子書籍を読むようになって一層感じた。

便利になる、ということは、味気ないということと同じなのかな。

本に関してはそうかもしれない。

 

 

最近読んだ本はほとんど全て面白かった。

でも気になったのは、自己啓発の本というのは、どうしてあんなに内容が一緒なんだろう。

・言われたことをちゃんと行動すること・思いついたことは奇抜だと思えることでもやってみること・いろんな人と対話してみること・学び取ること・旅行すること・本を読むこと

だいたいそんなことが書かれている。

それだけ同じ内容のものをたくさんの人が読んでいるはずなのに、どうして成功している人は少ないのだろう。

あと昔私に、1000万稼げるようになる、といったビジネス本を押し付けてきた年上の後輩男性は、果たして1000万プレーヤーになれたのだろうか。

考えをより良いものにするのはとても大事なことだし、向上心があることは素晴らしいことだと思うけれど、本人が1000万稼いでいないのに自信満々に貸し出されても説得力はない気がする。

それも昔のことなので、今は彼が1000万稼いでいたら格好いいな。どうだろう。

 

そう、面白かったのは、芦田愛菜のまなの本棚。

私が読んできた本とは少し違って、興味がすごくわいた。

私も同じ本を読んだ人たちと感想をしゃべりあいたいな。

さかなクンの一魚一会も、私がとても体験できそうにないことがたくさん書いてあって、しかもそれが楽しそうに書かれていて、前向きな気持ちになれる面白い本だった。

物語で言うとやっぱり山本周五郎のさぶに匹敵する衝撃の作品はなかなかないけれど、西條奈加の本を今年だけでももう5冊は読んでいるから、多分私に合っているんだと思う。

善人長屋シリーズと、まるまるの毬とその続編。

優しい語り口が好きだから、女性作家の方が入って来やすいな。

これも、瀬尾麻衣子の図書館の神様に出てくる垣内君のおかげ。

さぶから時代小説を読んでいる。でも垣内君もまなちゃんも読んでいた、川端康成の雪国も読んでみたいな。

たくさん買ってしまったからその順番がくるのはいつになるかわからないけど。

 

今気が付いたけど日本語が好きなのかもしれない。外国語が出てこない本が好きなのかもしれないね。江戸時代の小説をこれだけ気に入って読んでいるということは。

あと文章って合う合わないが結構出るよな、と思う。

だからもしかしたら海外の有名な児童書シリーズなんかも、翻訳家が違えばシリーズ全て読めたかもしれないよね。

 

 

明日も本を読もう。

さ、寝るか!

 

 

多趣味は無趣味

あまり使っていないPCなのに、起動してしばらくすると排気部分?が熱くなる。

壊れそうで怖い。

 

最近は本を毎日読んでいる。

エッセイや自己啓発書、小説。kindleのwhitepaperを購入したことで楽しい時間をすごせている。

漫画は別サイトで少しだけ読んでいる。

話題の少年漫画が主。

 

特に最近読んだ本の中で一番いいなと思ったのは、山本周五郎の『さぶ』。

全てを持っていると思われている栄二の転落と成長を描いているんだけど、タイトルは彼の唯一無二の親友のさぶ。

瀬尾麻衣子の『図書館の神様』を読んで、その本の登場人物である垣内君が読んでいた本が気になった。

本の中で登場する本というのはなぜか読みたくなる。

本を読むということは対話であることだという一説を別の本で読んだので、私はこの先一生知り合うことのない垣内君と対話するために、彼の読んでいた本を読む。

山本周五郎との対話でもある。

 

冤罪なのに、昔の自分の過ちのせいで信用していた人みんなから信用されなくなって、自暴自棄になってしまうという冒頭(それでもだいぶ長いなとは思った)。

誰からも信用されなくなっても、一番大切な親友のさぶは信じてくれていたからね。

おすえという女は本当になんだろうと思ったけど、栄二みたいなタイプの人って結局おすえみたいな一見しておとなしい感じの女が好きだよな。

うちの兄が全く同じような感じ。

 

電子書籍で読むとすごく手軽でいいけれど、あとどのくらいかというのが目で見てすぐにわからないから、長編を読むときはちょっと微妙なんだよね。

親切に読了の目安10時間とか出てきて大変な本に手を付けてしまった、と後悔もした。

でも読み終わってみると、読んでよかったな。

簡単だ。

 

何かを始めるということができたら、それをやめるというのが面倒くさく感じるタイプなので、長くても読み切ってしまうのだろうね。

自分に「読むの途中でやめちゃったね」とか頭の中で言われるのが嫌いだから。

「あーあ。」と思うのが面倒だから、読み切っちゃった方が気が楽という点で私はしっかりと長編小説も読み終えることができる。

 

さぶは最初から最後までさぶだから、読者も安心して最後まで読み進められるんだと思う。

さぶがもっと非凡で、栄二と同じような人種だったら、こんな結末にはなっていないし、栄二は堕ちたままだったんじゃないかな。

ありがとう、さぶ。

 

いろんな本を読もうね。

 

 

PCがまじであつい。

放置していたウェブログ

PCのタイピング練習に開設したこのブログ。

一瞬で更新しなくなってしまった。

昔は何をするにも長く続けられて褒められたし、長く何かを続けることが難しいことを知っていたから、わたしはそうできる人間であることを少し自慢したいときもあった。

歳を重ねていくにつれて、わたしも続けることができない人間になってしまった。それっていつからなんだろう。

日常生活をこうやってブログに残したとしても、それが誰かの目に触れることはそんなにない。例えば何かの製品名を出したり、参加したイベント名や、訪れた場所、食べた料理の画像、そういうものをたくさん掲載したりすればいいのかもしれない。

でもここはわたしがありのままに感じたこと、主に誰にも言えない悪口なんかをさらすところだから、できるだけ人目に触れないほうが都合がいい。

ではなぜスマホのダイアリーアプリではなくブログなのか。

それはただただ、タイピング練習の意味も含めて、使用しているガジェットの種類が異なっても、IDとパスワードさえわかっていれば、いつでも更新できて便利だと思ったからである。

 

更新しなくなった理由を探すために、開設した理由を思い出してみた。

 

タイピングに関してなら、速度はあまり変わらないにしろ、キーボードに注視しておらずとも入力できるようになっている。一年前の自分と比べると、そういうところは伸びているところだと実感している。ブログを介さなくても。

 

やらなくなることって本当に簡単で、楽で、でも少しの罪悪感がある。

それなのに、忙しいだの疲れているだのしょうもない理由を探して探して、しない言い訳を自分にしている。それって自分の自己肯定感を下げていくだけだからやめた方がいいね。

自己肯定感なんて、他人の言葉をそんなに信用していないわたしなんかじゃ特に、自分がコントロールするしかないのだから、できるだけ頑張りたいな、と思う。

 

悪口をたくさん言いたい。

悪口をたくさん言ってもいいような理由を探している。

でもできるだけそんなことしないように、ここにぶつけてしまわないようにしたかった。そんな理由もある。

だってそんなことしない方が、絶対良い。誰かの悪口を言うだけ、わたしだって嫌われている。だけどもう限界かもしれない。大きな事件が起きてしまう予感がしている。だから憂鬱な気持ちになって、わたしは早くも落ち込んでいる。

今は誰にも誇れない。

何かを長く続けられたわたしではなくなってしまったし、悪口をたくさん言う大人になってしまったし、仕事ぶりが、以前より熱心ではなくなってしまった。小手先というか、くだらない話術ばかり身に着けてしまった。もっと強くいたかったのに、自分が傷つかないという安心感だけで、楽なほうへと逃げ回っている。

 

やめよう。

 

不機嫌のススメ

 

退職すると決めてからというもの、職場のババアが不機嫌に文句を言ってきたときに、同等の不機嫌で返すようになってしまった。

足をがたがたと貧乏ゆすりしながら、はぁ、すいません。と返す。

完全に誰からどう見たってそこに謝罪の気持ちなど一切ないのが、露骨なほどよくわかるように。

 

そうすると、今までとても不機嫌に文句を言ってきたのに、急に「いいの、いいの」などと言ってくる。

自分の気分で他人を不愉快な気持ちにさせるくせに、他人にぶつけられた時には下手に出る。

そういう小賢しさ、そういう浅ましさ。

なんだ、もっと早くそうしておけばよかった。

だけど自分の心の持ちよう一つで、いたずらに他人に不機嫌をぶつけるだなんて、社会人としてだけじゃなくて、もっと根本的なところからどうかしている。

 

恥ずべき事だと思う。そんな、幼稚な相手と同じ土俵に立って、私も大概幼稚なものだと、自分自身にすこしがっかりしている。

 

ただ、それだけのこと

退職の旨を上司に報告した。

特に引き留められることもなく、理由のみ聞かれたので「ヒスババアがもう無理なので」と、まるでアルバイトを辞めるみたいな言い方になってしまった。

衝動で言ったわけではないのに。

もっといろいろ言葉を考えていたはずなのに。私は嘘がつけない。

 

意地悪、というとまだ柔らかいけれど、彼女は本当に底意地が悪いのだ。

サバサバしているなどとよく言う。

空気を吐き出すように自然に嘘をつく彼女と嘘が嫌いな私とではうまくいかないことは一年前からわかっていた。

遅かれ早かれこうなっていた。一年我慢した、それだけのこと。

未練がないとは言えないけれど、それでもいい。結局はどちらを選んでも後悔はする。

イライラしない方に向かって歩いていくことにする。