平成1桁ガチババア
昨日、Ⅹ(旧Twitter)で、『平成女児おばさん』なる言葉を目にした。
これは「03生まれで生成女児だった私」的なポストから始まった、本当に些細なものである。
ここで補足しておくが、03生まれというのは西暦で2003年、和暦なら平成15年生まれのことを指す。
そして元ポストは02だったかもしれない。1年の誤差は許容いただきたい。
しかし、そのなんということのない平凡なポストは、平成に飢えたおばさんの心を、良くない意味で鷲づかみにしてしまったのだ。
特に、これは30代以上のおばさん特有のマウント取りなのだが、簡単に言えば、
「いやいや平成10年代生まれなんて、女児だったころは平成20年代じゃねーか。平成後期に女児だったガキが、舐めた口叩いてやがるわ。」である。
そうした内容を、女性特有の遠回しな言い方で、よせばいいのにねちねちと言い始めた。
大量のマウントゴリラたちがわんさかと釣れた。
そして『うちらの方が平成を長く知ってる』というマウント取りに必死になっているおばさんに対して『平成女児おばさん』という呼称がついた。
『女児』に付く言葉に『おばさん』というその矛盾性は大きなインパクトを持ち、一瞬で広まっていく。
『子ども部屋おじさん』と同じ成り立ち、同じ性質の衝撃である。
こうしてまた今日もひとつの言葉の発生と広がりを観察してしまった。
若者だって平成に女児だったのなら平成女児なのに、なぜこうも『自分の方が長い』ということで優位に立ちたいのだろうか。
さて、短時間で『マウント取り派』と『仲良くしようよ派』のリプライ合戦になり、各々が通ってきた女児コンテンツを見せびらかし合っている。
女性のこういったマウント系リプライには画像が添えられがちなのも興味深い。
そのうち一生懸命にマウントを取ろうとする『平成初期に女児だった勢』は冷笑され、また新たな言葉の発生を目にした。
『平成1桁ガチババア』
平成に飢え、承認と優位性などの欲求に飢えたおばさんたちにつけられた新たな称号である。
すばらしい。
是非とも声に出して読んでみてほしいと思う。
なんという語呂の良さ。加えてリズム感も非常に良い。
ちなみにこんな言い方をしているが、私はまごうことなき平成女児。
しかも平成元年生まれ、どんぴしゃの『平成1桁ガチババア』なのである。
マウント派に習って紹介すると、セーラームーンとレイアースをこよなく愛し、兄に遊戯王をさせられる、平成男児界隈にも多少明るい平成女児だった。
ちなみに兄は、私には1軍デッキを貸し出して、自分は2軍デッキで戦うという心優しい舐めプスタイルなのだが、私が勝利した記憶は全くないということも記しておきたい。
話がそれたが、ネットリテラシーを身に着けすぎたきらいのある私は、元来の性格も相まってX上ではROM専に近いアカウントばかりを複数持っているが、話題に出すのにちょうどいいアカウントがないので、ここで『平成1桁ガチババア』に対して言及させてもらうことにした。
いやとにかくワードセンスに脱帽である。
最近の若者は本を読まないだの、語彙力がないだのと言われているが、SNSやショート動画が主として目に触れるものになると、こういった短くてインパクトのある言葉を生みやすいのだろうか。
私はこの短時間の間に、『平成女児おばさん』と『平成1桁ガチババア』の2つの称号を手にしてしまった。
何年か前までは『○○男子』が流行していた。
自分には当てはまらないので大した興味もなかったが、つぎは何おばさんの称号を手にするのだろうか。
『平成1桁ガチババア』は、奇しくも『夢見る少女じゃいられない』のメロディーに当てはめられることに気づいてしまった、午前2時なのであった。
横浜開港祭の花火は美しかった
ニートになって早9か月。
予定ではもっと早くに就職しているはずが、だらだらとここまで引っ張り続けてしまった。
でも楽しいんだ、ニートライフ。
さてさて、本題は6月2日、みなとみらいに行って花火を見た話。
入場制限ギリギリのギリで言った割に、やはり平日だからかすんなりと場所の確保に成功。
始まった花火の素晴らしいこと。
こんなに近くで遮るものなく見られるなんて。
きっと打ち上げ花火の中でも大玉なのだろうとは思うけれど、本当に近くて迫力満点だった。
そしていつからあるのかはわからないけれど、今の花火は点滅のように時計回りに色がパッパッと変わっていったり、逆に色の切り替わり方がグラデーションのようにふわっとしていたりして、なるほど花火も技術が進歩しているのだろうなと感動した。
打ちあがるときも、カービィの流れ星のようにキラキラしていたり、消えていくときもラメのようにチラチラと降っていったりするのが、生まれてから死ぬまですべての瞬間に抜かりなく美しかった。
大満足で会場を後にした。
ただ暗くなるまでずっと座っているのが、せっかちな友人にはとても大変そうだった。
まだかまだかと待ち続け、全く別のことを話しはじめ、会話の途切れると「まだか」「今日は中止なんじゃないか」と言っていた。
「まだ明るいですよ」「今始まってもきれいに見えないですよ」などとなだめるのも3度はした。
動いていないといられない、回遊魚のような友人なので、定期的に連れ出してくれる。
彼女の働きかけなくして私は出かけることがほとんどないので、誘ってくれたときには断らないようにしている。
ありがたい存在だ。
本当に楽しい思い出になった。
今年の夏は楽しくなりそうだ。
もういっそのこと最初からやり直そうか このブログ
資格の勉強をはじめた。
PCなんて長年使っているのに、Excelなんて長年使っているのに。
本当に中学生のころに習ったような機能しか使えていなかったんだなぁ。
またニートになって早8か月。
正直もう働きたくないけれど、そんなわけにはいかないからがんばるつもり。
なんでもできる輝かしい季節はおわり、今はつらいと嘆き続けて、でも希望を完全に捨てられずにいる。
面接なんてしなくても、本当に私一生懸命に働くし、あまり揉め事を起こさないようにみんなに感じよく振る舞うからどこか雇ってほしい。
面接しないと会社はわかるわけないから仕方がない。
やりたいことなんて溢れているのに、手芸だけやって一生暮らしたいよ。
人生のつらさと悲しみと
ひとつ書いては一年ほど放置する、という流れが定番になりつつあるこのブログ。
タイピング練習としてやってみたけれど、結局日記ならスマホアプリでやってしまうから全く活用できないよね。
ただの愚痴ブログじゃなくてコスメのブログにでもしようかなと思わないでもないけれども、コスメのレビューならこれまたスマホアプリでやっているから絶対的に放置の運命にあるのかもしれない。
うそ。運命ではありませんね。全てわたしの匙加減です。
今日は3年程相棒を務めてくれた後輩が退職の挨拶にきた。
もう本当に感謝しかない。
嫌なところももちろんあったけど、感謝していることばっかり。
私は彼女になにかしてあげられたかな。
年下だけど賢くて、常に自分を崩さない人だったね。
見習うところがたくさんあった。
勝手に学んでいくことができる人だから、私がなにか手本として学んでもらえたことがあったのかな。
ひとりぼっちになってしまった。お店にひとりぼっち。
他の人はお店を空けて昼食を買いに行ったりしているらしい。
え、許されるんだ。知らなかった。みんなそうなんですって。
でもこれからはずっとひとりだからね。
人生はつらくて悲しい。
そしてこのつらさと悲しみに勇敢に立ち向かう必要は多分ないんだろうね。
卒業だなと思ってはいるけれど、なんだか結局このままのような気もする。
どれだけつらいことがあっても、
「時々 um でも大丈夫 選んだのは私だもの」
という歌詞を思い出す。Do As Infinityの「Week!」
名曲なのよ。
気持ちを言葉にするのはむずかしいな。
今でも主張をするのは大の苦手。誰に対しても。
だから本とか歌詞とかをよく思い出すのかもね。
他人がつくってくれた言葉を自分勝手に解釈して、勝手に頭のなかでたくさん登場させてる。
他人が作った言葉なのに、共感できるなんて不思議だね。
だからつまり、普段はいろんなところを気にしながら、でも口には出せずに殺意だけを燃やし続けている。
怒りと殺意。
だめな自分のことは棚の上に置いて、他人のふるまいに苛立っている。
気にすんなよ。
わかる。でも無理なのよそれが。気になっちゃうんだよ。
昔に仕事を辞めて1年近く働かずに家にひきこもって寝てばかりいたことがあるけれど、今日、あの頃の私は多分鬱だったんだと思う、と母に言ったら、そうだと思うと同意を得られた。
家族にもそう思われていた。
またそうなんじゃないのかな。
つらいことばかりだし、やりたいことができないフラストレーションに、心配事がいくつも浮かんでいる。
最後の締めの言葉は、「今日もPCが熱いな。」で統一するか。
読書日記
今年の5月は一日も欠かさずに本を読んだ。
6,7,8,9月は仕事が休みには読まない日もある。
基本的には通勤の友だからね。
趣味って休みの日にするものだと思っていたけど、必ずしもそうではないんだな。
だけど5月ではなく、ここにきて急に本の読み方がわかってきた気がする。
本を読むのが早くなった。
本を読むことにも慣れってあるんだね。
今の生活って、文字を読まない日はないから読書速度が変わることはないのかなと思っていた。
本を読むのが早くなったら、もっといろんな本が読みたくなった。
今年は23冊の本を読んだ。
インターネット上に溢れている作品も読了のリストに入れたら、どれだけの量になるだろう。
書籍は専ら電子で読んでいる。
手軽に持ち歩けるし。汚れや折れを気にする必要もない。
文字の大きさも変えられるし、なによりも一番気に入ってるとことは背景は黒・文字は白の配色に変えられるところ。
これは本当に読みやすい。
なぜか昔から他人よりも物が眩しく見えやすいようなので助かる機能。
眩しく見えるよう、というのは、実際に他人の見え方を体験したわけではないので事実かはわからないけれど、昔から集合写真で一人だけ眩しそうな顔で写っていたり、私が眩しいと言うと、家族は別に眩しくないと言ったり、そんな程度の具合なのだけれど、とにかく白背景の眩しさは黒背景を試した今、もう戻れないなと思う。
でも本当のところは、紙の本が読みたい。
電子書籍は素晴らしい。とにかく軽いし、自分の本棚を持ち歩いているみたいに何冊もの本を入れられる。場所を取らない。
だけど、紙の本が読みたい。
触った感覚や本の香りが好きだなと、電子書籍を読むようになって一層感じた。
便利になる、ということは、味気ないということと同じなのかな。
本に関してはそうかもしれない。
最近読んだ本はほとんど全て面白かった。
でも気になったのは、自己啓発の本というのは、どうしてあんなに内容が一緒なんだろう。
・言われたことをちゃんと行動すること・思いついたことは奇抜だと思えることでもやってみること・いろんな人と対話してみること・学び取ること・旅行すること・本を読むこと
だいたいそんなことが書かれている。
それだけ同じ内容のものをたくさんの人が読んでいるはずなのに、どうして成功している人は少ないのだろう。
あと昔私に、1000万稼げるようになる、といったビジネス本を押し付けてきた年上の後輩男性は、果たして1000万プレーヤーになれたのだろうか。
考えをより良いものにするのはとても大事なことだし、向上心があることは素晴らしいことだと思うけれど、本人が1000万稼いでいないのに自信満々に貸し出されても説得力はない気がする。
それも昔のことなので、今は彼が1000万稼いでいたら格好いいな。どうだろう。
そう、面白かったのは、芦田愛菜のまなの本棚。
私が読んできた本とは少し違って、興味がすごくわいた。
私も同じ本を読んだ人たちと感想をしゃべりあいたいな。
さかなクンの一魚一会も、私がとても体験できそうにないことがたくさん書いてあって、しかもそれが楽しそうに書かれていて、前向きな気持ちになれる面白い本だった。
物語で言うとやっぱり山本周五郎のさぶに匹敵する衝撃の作品はなかなかないけれど、西條奈加の本を今年だけでももう5冊は読んでいるから、多分私に合っているんだと思う。
善人長屋シリーズと、まるまるの毬とその続編。
優しい語り口が好きだから、女性作家の方が入って来やすいな。
これも、瀬尾麻衣子の図書館の神様に出てくる垣内君のおかげ。
さぶから時代小説を読んでいる。でも垣内君もまなちゃんも読んでいた、川端康成の雪国も読んでみたいな。
たくさん買ってしまったからその順番がくるのはいつになるかわからないけど。
今気が付いたけど日本語が好きなのかもしれない。外国語が出てこない本が好きなのかもしれないね。江戸時代の小説をこれだけ気に入って読んでいるということは。
あと文章って合う合わないが結構出るよな、と思う。
だからもしかしたら海外の有名な児童書シリーズなんかも、翻訳家が違えばシリーズ全て読めたかもしれないよね。
明日も本を読もう。
さ、寝るか!
多趣味は無趣味
あまり使っていないPCなのに、起動してしばらくすると排気部分?が熱くなる。
壊れそうで怖い。
最近は本を毎日読んでいる。
エッセイや自己啓発書、小説。kindleのwhitepaperを購入したことで楽しい時間をすごせている。
漫画は別サイトで少しだけ読んでいる。
話題の少年漫画が主。
特に最近読んだ本の中で一番いいなと思ったのは、山本周五郎の『さぶ』。
全てを持っていると思われている栄二の転落と成長を描いているんだけど、タイトルは彼の唯一無二の親友のさぶ。
瀬尾麻衣子の『図書館の神様』を読んで、その本の登場人物である垣内君が読んでいた本が気になった。
本の中で登場する本というのはなぜか読みたくなる。
本を読むということは対話であることだという一説を別の本で読んだので、私はこの先一生知り合うことのない垣内君と対話するために、彼の読んでいた本を読む。
山本周五郎との対話でもある。
冤罪なのに、昔の自分の過ちのせいで信用していた人みんなから信用されなくなって、自暴自棄になってしまうという冒頭(それでもだいぶ長いなとは思った)。
誰からも信用されなくなっても、一番大切な親友のさぶは信じてくれていたからね。
おすえという女は本当になんだろうと思ったけど、栄二みたいなタイプの人って結局おすえみたいな一見しておとなしい感じの女が好きだよな。
うちの兄が全く同じような感じ。
電子書籍で読むとすごく手軽でいいけれど、あとどのくらいかというのが目で見てすぐにわからないから、長編を読むときはちょっと微妙なんだよね。
親切に読了の目安10時間とか出てきて大変な本に手を付けてしまった、と後悔もした。
でも読み終わってみると、読んでよかったな。
簡単だ。
何かを始めるということができたら、それをやめるというのが面倒くさく感じるタイプなので、長くても読み切ってしまうのだろうね。
自分に「読むの途中でやめちゃったね」とか頭の中で言われるのが嫌いだから。
「あーあ。」と思うのが面倒だから、読み切っちゃった方が気が楽という点で私はしっかりと長編小説も読み終えることができる。
さぶは最初から最後までさぶだから、読者も安心して最後まで読み進められるんだと思う。
さぶがもっと非凡で、栄二と同じような人種だったら、こんな結末にはなっていないし、栄二は堕ちたままだったんじゃないかな。
ありがとう、さぶ。
いろんな本を読もうね。
PCがまじであつい。
放置していたウェブログ
PCのタイピング練習に開設したこのブログ。
一瞬で更新しなくなってしまった。
昔は何をするにも長く続けられて褒められたし、長く何かを続けることが難しいことを知っていたから、わたしはそうできる人間であることを少し自慢したいときもあった。
歳を重ねていくにつれて、わたしも続けることができない人間になってしまった。それっていつからなんだろう。
日常生活をこうやってブログに残したとしても、それが誰かの目に触れることはそんなにない。例えば何かの製品名を出したり、参加したイベント名や、訪れた場所、食べた料理の画像、そういうものをたくさん掲載したりすればいいのかもしれない。
でもここはわたしがありのままに感じたこと、主に誰にも言えない悪口なんかをさらすところだから、できるだけ人目に触れないほうが都合がいい。
ではなぜスマホのダイアリーアプリではなくブログなのか。
それはただただ、タイピング練習の意味も含めて、使用しているガジェットの種類が異なっても、IDとパスワードさえわかっていれば、いつでも更新できて便利だと思ったからである。
更新しなくなった理由を探すために、開設した理由を思い出してみた。
タイピングに関してなら、速度はあまり変わらないにしろ、キーボードに注視しておらずとも入力できるようになっている。一年前の自分と比べると、そういうところは伸びているところだと実感している。ブログを介さなくても。
やらなくなることって本当に簡単で、楽で、でも少しの罪悪感がある。
それなのに、忙しいだの疲れているだのしょうもない理由を探して探して、しない言い訳を自分にしている。それって自分の自己肯定感を下げていくだけだからやめた方がいいね。
自己肯定感なんて、他人の言葉をそんなに信用していないわたしなんかじゃ特に、自分がコントロールするしかないのだから、できるだけ頑張りたいな、と思う。
悪口をたくさん言いたい。
悪口をたくさん言ってもいいような理由を探している。
でもできるだけそんなことしないように、ここにぶつけてしまわないようにしたかった。そんな理由もある。
だってそんなことしない方が、絶対良い。誰かの悪口を言うだけ、わたしだって嫌われている。だけどもう限界かもしれない。大きな事件が起きてしまう予感がしている。だから憂鬱な気持ちになって、わたしは早くも落ち込んでいる。
今は誰にも誇れない。
何かを長く続けられたわたしではなくなってしまったし、悪口をたくさん言う大人になってしまったし、仕事ぶりが、以前より熱心ではなくなってしまった。小手先というか、くだらない話術ばかり身に着けてしまった。もっと強くいたかったのに、自分が傷つかないという安心感だけで、楽なほうへと逃げ回っている。
やめよう。